何だか意味深なタイトルを付けてしまった~!他意はございませんので、皆さま落ち着いてお読みください @(||∀||;)@←自分が1番落ち着け。『漂流者たち』の歌唱は、切々と胸に迫るものがありました。
秀樹の独立
1983年、秀樹はデビュー以来お世話になっていた芸映を円満退社した。
そうして1月21日、有限会社「アースコーポレーション」(現在は株式会社) を設立する。
独立前の最後のシングル曲となったのが、『漂流者たち』。← 独立への危惧……とか@(||_||;)@? ← アホ言うなー!
『漂流者たち』は43枚目のシングルで、1982年9月30日にRCAから発売された。
秀樹27歳。
また、独立前最後のコンサートは、『HIDEKI RECITAL~秋ドラマチック』と銘打たれ、1982年11月13日~23日にわたり (9回目の日本武道館を含め) 開催されている。
さて、秀樹独立の経緯をどうしてこんなに気にするか、というと、上記の『漂流者たち』でもコンサートでも、秀樹が涙を流すんだよ~ @(T_T)@ どんなハードスケジュールも大怪我もガッツでこなして来た秀樹が~
何かあったの?
トラブル?
どうしたー!?← 遂に絶叫
…… という訳で、気になる独立の経緯をまずはまとめて行こう。
独立の経緯
秀樹がデビューしたのは1972年3月25日のこと。
芸映という事務所に所属していた。
★ デビュー曲『恋する季節』についてはこちら ↓ です~ @(*^_^*)@
独立の話が出始めたのは1981年頃
独立の話が出たのは1981年頃である
これについては、独立後に掲載された雑誌のインタビューで、秀樹自らが以下のように語っている。
(1983年)3月25日でデビュー12年目を迎えるわけだけれど、(中略)2年前からそういった(独立の)話は出てて、事務所の社長から
「ヒデキ、勉強してみる気はないか」といわれたんです。(中略)僕のことを真剣に考えてくれてるんだなあと思って、嬉しかったよ。
独立を考え始めた1981年というのは、男性アイドル界の転換期でもあった。
以下、年譜を記しておこう。
1979年10月~半年間 | たのきんトリオが出演した伝説の学園ドラマ『3年B組金八先生』が放映される |
1980年6月21日 | たのきんトリオの1人である田原俊彦が『哀愁でいと』でデビュー |
1980年12月12日 | 〃 近藤真彦が『スニーカーぶる~す』でデビュー |
1981年 | 芸映・秀樹ともに独立を考え始める |
1983年1月1日 | 独立宣言 ← キリがいいもんね! |
独立の理由
男子一生の仕事
男子一生の仕事として、独立してやって行くのが当たり前という考えから
昭和という時代は、「男らしさ」「女らしさ」という定義が非常に厳しかった @(||∀||;)@ ← 猿らしさw
故 石原裕次郎だって、
「俳優は男子一生の仕事にあらず」なんて言っちゃいながら、『太陽にほえろ!』のボスを渋々と演じていたんだよ~
秀樹も独立にあたり、以下のように述べている。
やはり男として一生この仕事を続けていく以上、独立するということはなくてはならないこと……
『秀樹しんぶん VOL.31』より引用
芸映の3代目社長 青木伸樹氏の後押し
そもそも、芸映の青木伸樹社長が秀樹の独立に積極的だったから
デビュー当時から育ててくれた芸映の3代目社長青木伸樹氏との関係について、秀樹は以下のように語っている。
前の会社の社長が言ってくれたんですよ。
週刊明星1983年9月22、29日合併号より引用
「旅をしろ。30代、40代とどうせ男はますます大変になる。今からその苦労することはいいことだから、勉強しろ』って
青木社長自身も以下のように語っている。
“独立”じゃなくて“ノレン分け”なんだけど、どうもヘンなふうにとられて、正直言って困ったな
週刊大衆1983年6月6日号より引用
円満退社だった秀樹
その一方で、当時独立はタブー視されながらも、ひとつのブームとなっていたことも確かである。
1970年代から1980年代にかけての芸能界は、老舗の渡辺プロダクションから大物歌手がマネージャーを引き連れて次々と離れるなど混沌としていたが、現在と同じように『事務所独立』はタブーだと認識されていた。
しかし、(秀樹の独立に関しては、芸映の)社長が正直に気持ちを話したことで、その後の西城さんの歌番組出演などに支障は出なかった
2018.5.29 『NEWSポストセブン』より引用
秀樹の本名は木本龍雄だが、秀樹の干支は未(ひつじ)だって知ってる~?@(*^_^*)@ メエ~
にも関わらず、「龍」とか「寅」とか名づけるお父様って、良い意味でのこわもて様だと思う。← 実際にメチャ怖でいらしたとか……
そのお父様に育てられた秀樹よ〜
秀樹も青木社長も「(昭和の)男は独り立ち」するもんだ、ってことで意気投合したのだろう。
また青木社長には、『獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす』という格言通りのお気持ちがあったと推測される ← 秀樹のお父様と似た物同士感が……@(||_||;)@
野口五郎の場合
秀樹は独立の話を、仲良しの五郎ちゃんにはしていたんじゃないかな?
そこで独立に関して野口五郎はどうだったか、というと……
やはりデビュー以来お世話になっていたNPミュージック・プロモーションから20代後半で独立。
1986年7月(五郎31歳)に、自身の事務所である”オフィス・G”を立ち上げている。
(野口五郎は)アイドルとして人気を集めたのち、20代後半には、所属事務所の倒産をきっかけに独立したが、芸能界の不文律でテレビ出演を自粛せざるをえなかった。
『文春オンライン』より引用
それもあって30代半ばまでは舞台を中心に活動する。
↑ ええーっ!
秀樹と時を同じくして独立しているけれど、そこはかとなく不穏 …… @(||∀||;)@ ← これ以上の追究は止めよう
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独立スタート時の状況
それでは最後に、独立スタート時の秀樹の様子を描写している記事を引用し、今回は終了としよう。
ええっ?『漂流者たち』についてはっ?
ー 次回に回します @(¬ε¬)@口笛ピロロ ← 看板に偽りあり
大変申し訳ございません!@(_ _)@ ガバリんちょペコリ ← 一体何なの〜(冷や汗)?
ギョエッ!”イモだち”で一躍ゆーめー人になったヒデキのマネージャーの天下井すゎんがバサッと髪を切ってしまった!
X 姫香さん所有の資料より引用させて頂きました
それもそのはず、1月1日でプロダクションから独立したヒデキの新しい事務所の社長サンになったのじゃ!この、ちょっと情けない面持ちになった天下井すゎんも、ヒデキの新出発のために、キッパリとけじめをつけたのでありやす。(長嶋さん、元気かい?)パチパチ。
なつかしの『恋する季節』でヒデキがデビューしてはや11年。
「男はいつまでも他人にたよっていたのでは大きくなれない。27歳になったのを機会に、もうひとまわり大きくなれよ」という社長のあたたかいことばに送られて、独立をすることになったのだ。
こんな社長のことばもヒデキにはうれしかったんだけど、”独立する”って公表されてないときにきたファンの ”牡羊座のヒデキには、今年は独立するのに最高の年だそうです。がんばってネ” という手紙が最高にうれしかったそうな。
”独立した”といっても、まだ事務所の場所をさがしに飛びまわってる段階だし”ヒデキオフィス(仮称)”も天下井さんとヒデキともうひとりのマネージャーの3人しかいないのだ。でも、さすが気心もバッチリ知れてるし、団結力でがんばっている。
2月1日には、気分も新たにシングル『ギャランドゥ』も発売するし、大阪球場の10周年公演、後楽園球場のコンサートの復活もあるし、これから、ますます忙しくなりそうなけはい。さらに大きくなるために「毎日、歌と踊りと英語のレッスンに全力を投入したい!」とはりきってる。
『自分を開拓する』という今年の目標どおり、もちまえのガッツで新しい道を走りはじめたヒデキを応援しようぜいっ!
↑ ああ~、昭和チックなファンへのアプローチがたまらんぜいっ!@(//∀//)@
★ 独立後の第1弾となった『ギャランドゥ』についてはこちら ↓ です~
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